見習い看護師時代。いちばんナイチンゲールだった時かも。
こんにちは。
こっこです。
今日は 私が看護師見習いをしていたときのお話をします。
看護師になるには さまさまな道がありますが
そのうちのひとつの例です。
看護師になりたいと思っておられる方、
またそのご家族の方などの参考になれば 嬉しく思います。
自分が本意としない道だったとしても
30年を過ぎた今考えると 最良の道だったのかもというお話。
看護師になりたい!患者の近くで夢に寄り添える人へ。【電子書籍】[ 市原卓弥 ]
私は高校卒業後、3年制の看護学校に進学したかったのですが
家庭の経済状況が悪く、学費を払うのが困難なため、就職することにしました。
学校の成績が良かったので 学校推薦をもらえ 大手企業を受けることができました。
その頃の女の子は 進学なら短大に行く人が多く、高卒で就職する人は 短大卒と競わなくてはなりませんでした。
もっと 自分に似合う企業を希望すればよかったのですが 若い私は 世の中を知る努力もせずに大手企業を受け、撃沈しました。
私よりも成績の良い友人も大手を受けて
撃沈しました。やはり 当時の大手企業は
短大卒の方を採用する傾向にあったのかも知れませんね。
就職もできないし、
どうしようかなあ。と考えていましたら
高校の先生から
個人病院で働きながら 准看護学校に行って、
そのあと 進学して 正看護師の資格を取ったらどう?と提案されました。
今は 制度が変わっていて 病院に所属しなくても 医師会立の看護学校に通えるそうですが
当時はこうでした。
医師会に属する個人病院に所属し、見習いとして働きながら 医師会立の看護学校に通います。
学費は個人病院が出してくれます。
そのかわりお給料は 学校に行く時間がありますので 多くは いただけません。
2年で 准看護師の資格がとれます。
そこの病院でその後2年間働けば 学費は返さななくてよいという
御礼奉公と呼ばれる制度でした。
進学したい人は 2年課程の全日制か3年課程の夜間の看護学校に進み、正看護師の資格を取ることができます。
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学費の心配せずに資格が取れるのは
お金がない私には 本当に助かります。
看護師になる夢も諦めなくていいんだ!と
その道に進むことにしました。
高校の先生が 所属する個人病院の奥様と知り合いで 紹介してくださり、
良質な個人病院に所属できました。
当時は 悪質な 病院もあり、
院長先生のご自宅の雑用まで させられる同級生もいました。
奥様から犬の散歩に行きなさい。とか 水まきをしなさい。とか。
私が所属した病院では、
先生のご自宅の雑用は 一切ありませんでした。
看護師長さんが 看護学生を自分の部下として 厳しく指導をしてくださったり、守って下さいましたので。
当時の私は 18歳。世間知らずで 何もわかりません。
目の前のことをすることが精一杯でした。
とにかく 一生懸命にやる毎日でした。
診察の介助、器具の洗浄、リネンの整理、
点滴や注射器や注射針等の物品をすぐ出せるように箱や棚に準備しておいたり。
技術もない、知識もないですから
看護師さんの仕事のお手伝いから始まりました。
慣れてきたら 心電図をとったり、点滴を準備したり、注射や採血の準備や手技も習いました。
入院患者さんのシーツ交換、検温、清拭、洗髪、入浴介助、食事介助、その他必要なケアなど先輩の指導を受け、失敗しながらも 学校での学習や実習での習得もあり、徐々にできるようになりました。
患者さんも 私を育てて下さいました。
常連の患者さんは
ここに注射を打ってごらん。と 自ら腕を差し出して下さいました。
失敗したら 反対の手を出して下さって。
毎年 看護学生がいましたので
常連の患者さんも 慣れたものでした。
院長先生や、看護師長さん、看護師さん方と
患者さんの関係が たいへん良好だったから
患者さんも看護学生を育てて下さったのですね。
戴帽式のときは 先輩看護師も院長先生も奥様も 喜んでお祝いをして下さいました。
患者さんは まるで孫娘が 戴帽式を迎えたかのように ナースキャップを初めて被った私の姿を 笑顔で似合うね。と見つめて下さいました。
恵まれた暖かい環境で 勉強をさせてもらったこと、 今考えますと感謝しかありません。
でも その当時の私は 高校卒業後に3年制の学校に入り、正看護師の資格がとれる友人が羨ましくて仕方がありませんでした。
レギュラーコースと呼ばれる3年制に行けなくて、自分が落ちこぼれたように思っていました。
本意では ないけれど4年か5年かけて資格をとる。
私には このやり方しかないから仕方ない。と思っていました。
しかし、この経験こそが 後々の看護師としての経験を豊かにしてくれたのです。
2年生になったある日、
私は 主任さんから 患者さん、Kさんの食事介助を頼まれました。
Kさんは 心臓が悪く、長い期間 大部屋に入院されていました。
だんだんと弱っていかれ、歩くことも出来なくなり、重症患者さんが入られるナースステーションの隣の部屋に移されました。
自分で食べることもできず お粥や ミキサーにかけたおかずを食べさせてもらっていました。
私は Kさんが一口食べてくれると とても嬉しくなりました。
どのように介助すれば 1口でも多く食べることができるかなあと考えました。
口に運ぶ、タイミングを工夫したり、
話の内容をKさんが笑顔になるものにしたり、
一口の量を変えてみたり、
知識も技術も少ないけれど 私なりに工夫をしました。
何度かそのような介助をするうちに
Kさんは 昼食時、私が学校から戻るのを待って
おられるようになりました。
私に食べさせてもらいたいからと。
技術ではないのですね。
経験ではないのですね。
ヘタなりに一生懸命。
患者さんには伝わるのですね。
一口でも できるだけ 良い気持ちで食べていただきたい。ただそれだけの思い。
Kさんは だんだん食べることができなくなりました。
学校に行っていて Kさんの最期を看取ることは できませんでしたが
Kさんの娘さんから ありがとう。あなたがいてくれて 父は喜んでいました。言っていただきました。
資格もない私でしたが
当時が
いちばんナイチンゲールだったように感じます。
その後、進学し、正看護師になりました。
総合病院の脳外科で急性期、慢性期の患者さんの看護、小児科、産科看護も経験しました。
忙しさに追われ、時間内に業務をこなし、
難しい処置もするようになりました。
仕事のこなせる看護師さんには なったけど
果たして 患者さんに寄り添う看護師さんだったのか?
うーん🧐。どうかなあ。
その場、その場で、懸命にやってきたと思うのだけど。
私、総合病院時代の患者さんのことは はっきり覚えてないなあ。
患者さんの回転が早かったこともあるかと思いますが。重症患者さんを受け持つ緊張と忙しさに追われていることが多かったですね。
見習い時代のことは かなり はっきり覚えています。患者さんの顔もフルネームも。
あの方は あんなふうだったなあ。自分はこうだったなあ。と時々 思い出しています。
あの見習い時代の経験がなかったら、
私の看護師としての経験は 今より寂しいものになったかも知れません。
こんな道は 嫌だなあ。
と思っていた道こそが
私を豊かにしてくれたかけがえのない時でした。
歳をとった今、最良の道を進めたのだと
はっきり言えます。
自分の希望通りの道を通れなくても
気持ちを腐らせず、懸命にできることをする。
素晴らしい出会いと努力があれば
最良の道を歩めて良かった❗️が待っているかも知れません。
何十年かあとに幸運に気付けるなんて
なんかちょっと良い人生かも。
とても平凡な私の人生にも 意外と結構 良いことがあるのだなあと 少し感心しています。
今の環境は望んでいるものとは 違うと思っているあなたへ。
あなたの今を
将来、ご自分で どう感じるか
それは わかりませんよ〜🌟
それは あなた次第かも知れません🌟
長いお話にお付き合い下さいまして
本当にありがとうございました。